インペリオ・セハーノ 1982年

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「ブンブン・パチクンブン・プルグルンドゥン」

導入

 レクリエーション団体 エスコーラ・ヂ・サンバ・インペリオ・セハーノのテーマは、1930年代から今日に至るまでに行われた、エスコーラ・ヂ・サンバのパレードの歴史を総括す ることです。ブンブン・パチクンブン・プルグルンドゥンというタイトルは、カーニバルに際して披露されるサンバ以外のいかなるリズムとも異なる、エスコー ラによるサンバ打楽器の打音を表しています。

 この表現は、エスコーラ・ヂ・サンバ第1号であるデイシャ・ファラールの設立メンバーの一 人であるイスマエウ・シウヴァ(1905年-1978年)が、ジャーナリストのセルジオ・カブラウが行ったインタビューに対して回答した内容に含まれ、セ ルジオ・カブラウがそれを転記した書籍「アス・エスコーラス・ヂ・サンバ-それは何か、誰か、どうなのか、いつなのか、なぜなのか」の記載から採択したも のです:

セルジオ・カブラウ――エスタシオ地区出身者のあなたがたには、新しいタイプのサンバを生み出しているのだという意識があったのでしょうか?
イ スマエウ・シウヴァ――オレが始めた頃、その頃のサンバってのは、今時分の皆が見てるのと比べっと、カーニバルに出るグループが道を練り歩くのにはどうも 向いてなかったんだよな。スタイルが歩くのにあってないんだ。それで、そういう問題があるよなって、オレが言い始めたんだ。そのころのサンバは、こんな感 じさ。タン・タタン、タン・タタン。こらダメってもんさ。これでブロッコに道路をどう歩けってのさ?そんだから、オレ達がこんなサンバを作ったってわけ よ:ブンブン・パチクンブン・プルグルンドゥンってな。

 このように、イスマエウ・シウヴァは、伝説的な地区であるエスタシオ・ヂ・サの サンビスタたちが1920年代にリオデジャネイロのサンバにもたらした根本的な変革に言及しています。彼らこそが、サンバをマシーシの影響下から決定的に 解き放ち、現在世界に認識されている姿のサンバを作り上げたのです。

 今日エスコーラ・ヂ・サンバと認識される諸団体の成立も、そこ、す なわち、サンバの新しい打法の開発、ブンブン・パチクンブン・プルグルンドゥンから始まったのです。そして、カーニバル期間に、数々のエスコーラ・ヂ・サ ンバがプラッサ・オンゼに集まってパレードを行うようになったのです。

 何年も何年も後の1950年代、パレードがプレジデンチ・ヴァル ガス大通りで行われて、サンビスタがカンデラーリア教会近辺に集まるようになっていた頃、エスコーラ・ヂ・サンバは、学があって高名な造形作家の影響を受 けるようになり、各団体の視覚表現に新概念が注入されました。

 最終的に1970年代半ばには、過剰なまでに絢爛豪華であることが、サンバ の正統性という価値云々を追いやってしまいました。こうして訪れたのが「スーパー・エスコーラ株式会社」の巨大な山車が毎年マルケス・ヂ・サプカイをパ レードして、サンバの達人を隠してしまう時代です。

 インペリオ・セハーノは、今回のカーニバルで、ブンブン・パチクンブン・プルグルン ドゥンに始まって「スーパー・エスコーラ株式会社」に至る、パレードの年代記を披露します。また、一つのエスコーラで3つのエスコーラを表現します。プ ラッサ・オンゼのエスコーラ、カンデラーリアのエスコーラ、そして、サプカイのエスコーラです。

シノプス本文

第1部――プラッサ・オンゼ、すなわち、正統的局面

  私たちは、伝統的なプラッサ・オンゼでのパレードで見られたであろう情景を披露します。コーラスにも参加する綺麗な列に並んだバイアーナ、白いスーツに身 を包んでツートーンの靴を履いたマランドロ、日よけ、山車の先導員、ウィッグをつけた貴族・貴婦人、外部の人が入ってパレードを妨害しないように張られた ロープ。

 ここで私たちは、リオデジャネイロのエスコーラによるサンバが不明確ながらも正統的であった時代、サンビスタがステップで語り、所属団体への愛が時には生命、果ては死の問題にもなったころのことを表現します。

第2部――カンデラーリア、すなわち交流の時代

  造形作家ディルセウ・ネリの妻で、人形作家兼装飾作家のスイス人であるマリー・ルイーズ・ネリは1950年代にフレーヴォの審査員として招待された際に、 カーニバルのパレードの自発性とエネルギーに魅了されました。それをきっかけとして、彼女はエスコーラ・ヂ・サンバにのめりこみ、ディルセウとともに、初 のカルナヴァレスカとなって、人々の自発的な表現であったパレードに、学識に裏付けられた整理によって直接的な影響をもたらしました。この夫婦の他にも多 くのプロが続きました。中でも、アカデミコス・ド・サウゲイロに参加して、手編み細工、手押しの山車、民俗舞踊を下地にした振り付け等の新機軸を導入し た、フェルナンド・パンプローナとアルリンド・ホドリゲスの名前を挙げないわけにはいかないでしょう。私たちは、この頃のカーニバルに現れた、より観衆の 目を引き付ける要素を取り入れた装飾をほどこしたグループの姿を表現します。特にその最後には、当時インペリオ・セハーノのカルナヴァレスコであったフェ ルナンド・ピントのヒットであったカルメン・ミランダのアーラを登場させます。

第3部――マルケス・ヂ・サプカイ、すなわちスーパー・エスコーラ株式会社の時代

  スーパー・チャンピオンによるスーパー・パレードには、当然スーパー・ガールズを満載したスーパー山車が存在するものです。残念なことにスーパー・サンバ は必ずしも存在せず、一方スーパー・コストがかかっています。サウゲイロでアルリンドとパンプローナのペアの下、カンデラーリアでのパレードでも頭角を現 して いたジョアンジーニョ・トリンタは、ベイジャ・フロールに移籍して、いよいよをもって自身の独立宣言を行い、新しいルールを作り上げ、カーニバルとは絢爛 豪華であると定義しました。

 優勝するエンヘードを見ると、歴史や民俗を題材としたものはなりを潜め、観客にはなんのことやらほとんどわからない一方で、強力なスポンサーに支えられて、全能のカルナヴァレスコが自分の想像の限りを尽くせる余地をもった空想的なテーマがそれらにとってかわり ました。ここで私たちは、参加者ひとりひとりが非現実的な山車であるような道を表現したアーラを披露します。

ホーザ・マガリャンィス、リシア・ラセルダ


(サンバ・エンヘード)
ベト・セン・ブラッソ、アルイージオ・マシャード

私の心は様変わりした
紙吹雪と紙テープで
私の気持ちは少女を作った
想い出の世界では
私は皇帝の冠を抱いて、私のカーニバルを披露した
私の感情をダダ漏れにして
嗚呼プラッサ・オンゼ、汝は不滅なり
その腕でサンバをあやし
その終着点は勝利の場所
樽でクイーカを作り
別の樽でスルドを作ったあの頃

ヘコヘコとパンデイロとタンボリンがあって
美しいバイアーナがいて、サンバがこうなった

そして一歩一歩着実に、サンバは育った
カンデラーリアでは一つの極致に達した
ロバの群れ、なんという光景か、見て楽しい
モレッキス・ヂ・デブレーによる沿道整理
アフリカ人、始原を描く絵画
イエマンジャー、イエマンジャー、視覚効果を豊かにして

おいで、愛する人よ、悲しみとはもうお別れにして
今日はカーニバル、喧噪の日、誰も泣かない日だよ

スーパー・エスコーラ・ヂ・サンバ株式会社が
スーパー山車が
サンバの達人を隅に追いやる
なんと嘆かわしいことだろう

ブンブン・パチクンブン・プルグルンドゥン
みんな、これが僕らのサンバだよ
ブンブン・パチクンブン・プルグルンドゥン
マルケス・ヂ・サプカイを占拠する

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