ポルテーラ1995


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"たまらなく好き"


「我らは大海原のただなか、、、帆を開く
熱くむせかえるような海風に向かい
船は波間を走る
ツバメが宙を舞うがごとく、、、」
(カストロ・アルベス『O Navio Negreiro((奴隷船))』より)

い くらでもない自由時間に、彼らはサンバを踊り、よりよい生活の日々を夢見ました。大半は、踊る意味についても深くは考えてはいませんでした。いうなれば、 過ぎし日々、祖先、奴隷時代へと回帰するように、ただ自由に身体を動かしていました。一歩一歩の足運びに、悲しみがこめられていました。

や がて、カーニバルが始まります。最初のリオのカーニバルは、復活祭の日曜日である1641年3月31日を起点に一週間続きました。そこには、総督サルバ ドール・コヘーア・ヂ・サ・ベネヴィーヂスの関与がありました。総督は166人の騎馬隊を従えて、ポルトガル王制の復興を担う「再興王」ジョアン4世の即 位を祝う「万歳」の声をあげながら、通りを練り歩きました。

17世紀から18世紀のお祭り騒ぎの参加者の大半を占めたのは、イエズス会の 学校に学ぶ学生たちでした。ある年に、彼らは「1万1千の処女」をテーマとして組織的なパレードを行いました。ブラジルのカーニバルが、アフリカ系にせよ ポルトガル系にせよ民俗的な要素を含んで、定期的に開催される大衆的祭事としての性格を備えるようになるのは、また後の話です。

植民地時 代には、ポルトガルの伝統を受け継いだエントルードがありました。騒ぎが騒ぎを呼ぶように、エントルードでは、水鉄砲の噴射やバケツごとの散水が行われま した。よりスタイリッシュな手段として、蝋の器に香水を仕込んだリモン・ヂ・シェイロという「武器」も用いられていました。

メディア・出版業界の主導で、これに反するキャンペーンも行われました。こちらでは、ヨーロッパ風、とりわけベネチア流のパーティーが推奨されていました。

こ うしたパーティーの退廃的な魅力に刺激を受けて、犬、猫、豚などの顔を模したり、ひげをたくわえたり、まぶたやあごを可動式にしたりした、薄い焼き物や厚 紙のマスクを作る人々が現れました。リオデジャネイロの劇場で行われた最初の仮面舞踏会は、外国の女優の提案によるものでした。さあ、コロンビーナたちの ために道を開けて。

このような舞踏会の登場は、カーニバルへの女性の参加という点で重要な意味を持つものです。それ以前は、娘をパーティーに参加させることなど、ほぼ全ての親が反対していました。

エントルードにかわって、参加者たちは、ニースのカーニバルに倣って花合戦を行ったり、ナポリのカーニバルに倣って紙吹雪を投げあったりするようになりました。

ク イーカ、タンボリン、その他、今日のエスコーラ・ヂ・サンバのバテリアを構成する打楽器類がどういうものであるか、当時はまだ、まったく知られていません でした。ゼ・ペレイラの名で知られるポルトガル人が導入したブンボ――あるいはザブンバ――が、半世紀ほど続くカーニバルの伝統となりました。

そこから発展する形で、コルダォンやブロッコといったグループが、ブンボに加えて、クイーカ、タンボリン、パンデイロ、フリジデイラなどを用いるようになりました。

1850 年を過ぎると、ソシエダーヂ・カルナヴァレスカが組織されるようになりました。先行したのはコングレッソ・ダス・スミダーヂス・カルナバレスカス(カーニ バル首脳会議)、後に、テネンチス・ド・ヂアーボ(悪魔の代理人)、デモクラチコス(民主主義者)、フェニアーノス(フェニアン主義者)らが続きました。 ソシエダーヂには、収益によって奴隷を買い取って解放するなど、奴隷制廃止に重要な役割を果たした面もあります。

踊られていたのは主に、クワドリーリャ、ショッチ、ワルツ、ポルカで、1870年以降、「忌まわしきダンス」の異名をもつマシーシが加わりました。マシーシは、ポルカとアフリカ系のルンドゥの融合によって生じた、初の国産ダンススタイルです。

19 世紀末、主に黒人や混血である港湾労働者たちの中から、サンバが生じました。マシーシが徐々に現代の都市型サンバに近づいたとも言えます。この「セバスチ ノーポリス(聖セバスチアォンの街リオデジャネイロ)」にあって、彼らは、サウーヂ地区のペドラ・ヂ・サウ周辺を拠点としていました。そこはまさに、バ イーアから持ち込まれた習俗・習慣を保持する砦でした。

この頃さらに、ハンショが創始され、リオのカーニバルに新たな彩りを加えました。芸術的で絢爛豪華な装飾を施し、テーマ性を帯びたパレードが行われました。

リ オデジャネイロに住むバイーア出身者たちは、故郷由来の宗教的習慣、祝祭、踊り、その他民俗習慣を保持していましたが、新たな興味の対象として彼が目をつ けたのがカーニバルでした。カーニバルは都市部、わけてもサルバドール、リオ、ヘシーフェにおいて、民俗文化の触媒の役割を果たし、バイーアのククンビ、 ペルナンブーコのマラカトゥ、コンゴス・コンガーダス、タイエイラス、キロンボ等々、様々な要素がカーニバルに取り入れられ、融合されていきました。

今日見られるような路上のカーニバルも、この頃に始まりました。参加者たちは、あらかじめ新聞で告知された場所に、路面電車で駆けつけました。

1897 年にオウヴィドール通り周辺の中心街の路上で行われた祭りは、面白みに欠けた残念なものでした。このことをきっかけに、マドゥエイラの広場で、ステージや テントを設置し、音楽バンドを手配した祭りが自主開催されました。その他の郊外地区もこれに倣い、地域毎の路上カーニバルというものが生まれました。

20 世紀初頭以降、カーニバルは着々と変化していきます。プラッサ・オンゼは人で溢れ、ポルト、マンギの両埠頭方面から大きな打楽器の音が響いていました。超 満員の路面電車から吐き出されるように降りてくる、海賊、ベリーダンサー、そしてマランドロ。麦藁帽子、サテン生地、輝くラメ、付け髭。汗とスプレー式の 香水のにおい。中産階級は、ピエロ、コロンビーナ、ハーレクインなどの扮装で練り歩きました。新機軸は、コルソと呼ばれる、オープンカーでのパレードでし た。シキーニャ・ゴンザーガの「オー・アブリアーラス」が1899年以降大好評でしたが、やがて「ヴェン・カ・ムラータ」というタンゴ・シューラにその座 を譲りました。また、街灯がガスから電気へと変わっていきました。

最初のサンバである「ペロ・テレフォーニ」が、新しいリズムスタイルで あるサンバの進む道を開きました。1920年代、ラジオの普及によって、劇場のレビュー公演の人気にかげりが見るようになりました。ペーニャの祭りが、 カーニバルに次ぐ一大イベントでした。少なくとも音楽的な面について言うならば、カーニバルの始まりはこの辺りからということになります。作曲者たちは、 次のカーニバルでのヒットを意識して作品を発表しました。沢山の人がペーニャに集まるがゆえに、発表もそこで行うようになりました。ペーニャで人気を勝ち 取った曲が、すなわち、文句なしに2月のカーニバルでも大ヒットというわけです。

菓子店コロンボでは、ゲートルを巻いて杖をついた老人(の扮装をした男)が貴婦人(の扮装をした女)をナンパしていました。

サンバ自体も徐々に、独特の沸き立つリズム感を獲得していきました。振り付けや組織の面で既存のハンショと一線を画した「デイシャ・ファラール」がエスタシオで結成されました。

ハンショの特徴や様式を受け継いだエスコーラ・ヂ・サンバの登場が、ハンショの衰退を決定付けました。

チャールストンを踊りながら、このような歌が歌われました。

ねえ、
君に喜んでもらいたくてなんでもしたよ
愛しの君
そりゃないぜ
君はきっと
君はきっと
ぼくにハートをくれるはずなのに

「ゴ スト・キ・ミ・エンホスコ(たまらなく好き)」は、老若男女・貴賎雅俗を問わない大ヒットとなりました。「ナ・パヴーナ(闇の中)」では、スタジオ録音で 初めて、クイーカ、スルド、タンボリン、パンデイロ、ガンザ、ヘコヘコが用いられました。カーニバルにおけるリズム方面の革新のためにタンボリンが流行し た結果、ヘッド材の調達目的で多くの野良猫が犠牲となりました。

1930年代の流行曲といえば、まず「ヘクラーミ(文句を言って)」。 「カルナヴァウ・ウン・アモール・ヂ・サボネッチ(カーニバル、石鹸愛)」で一風呂浴びて、どこへ出かけるかといえば、「アオ・サンバ・キ・ヴォセ・ミ・ コンヴィドウ・コン・ホウパス・ダ・カーザ・マチアス(君が誘ってくれたサンバに、マチアスの店で仕立てた服を着て)」。ラジオ番組「オ・プログラマ・カ ゼー(カゼーの番組)」も始まりました。映画館ではどこでもトーキー映画が上映されるようになりました。優れた作曲者と演者の出現にともなってブラジル大 衆音楽が黄金期を迎え、盛んにラジオで放送されました。サロンでは「オ・テウ・カベーロ・ナォン・ネガ(君の髪は否定しない)」。プラッサ・オンゼで始め てエスコーラ・ヂ・サンバのパレードが行われました。もうひとつ、リオのカーニバルの伝統が生まれました。市営劇場のガーラ舞踏会です。デイシャ・ファ ラールは姿を消しました。最初のパレードに先行者がいないというときに、人々はこのように歌っていました。

僕が死んだら
涙もロウソクも要らない
彼女の名が記された
黄色いリボンがほしいかな

他のヒット曲には、「アゴラ・エ・シンザ(今は灰)」、「オ・オルヴァーリョ・ヴェン・カインド(羊が降ってくる)」、「リンダ・ア・ロウリーニャ(かわいいな、あの白人の娘)」などがありました。

ポルテーラの数々の優勝の第一弾もありました。後にリオデジャネイロ市の公式ソング的な位置に上り詰める「シダーヂ・マラヴィリョーザ」もこの頃生まれたものです。

こ の黄金期に大ヒットをおさめた曲に見られるのは、人々の日常的な問題に真摯に向き合う姿勢です。政治家を批判するものであったり、日々の問題そのものを描 いたり。したがって、検閲の対象にされることもありました。たとえば、「サン・ジャヌアリオの電車にまた一人乗る『オターリオ(アシカ野郎・まぬけ)』」 という歌詞は「・・・また一人乗る『オペラーリオ(労働者)』」と変更されました。

戦後間もない時期、カーニバルの利権にひかれて、即席の作曲者や二線級の演者がラジオに進出するようになりました。商業化時代の始まりです。

今日、カーニバルの曲が街中をひとつにするようなことはなくなりました。参加者たちの会話代わりになるような歌詞はもうありません。サンバにせよマルシーニャにせよ、かつてあったような重要な意味を失ってしまいました。

まさにその通りのことを歌っているのが「マルシャ・ダ・クワルタフェイラ・ヂ・シンザス(灰の水曜日のマルシャ)」です。

私たちのカーニバルは終わってしまった
歌を歌ってもだれも聴こうとしない
、、、それでも歌わなければならない

プラッサ・オンゼもおしまいだ
もうエスコーラ・ヂ・サンバは来ない、もう来ないんだ、、、

大きな花道(サンボードロモ)の設置のために、サンバ先行者の砦(プラッサ・オンゼ)が犠牲になりました。タンボリンが泣き、丘全体が泣きました。それでもサンバは続きました。

エスコーラ・ヂ・サンバは死ななかった、以後も死なない(セルジオ・カブラウ)

チア・シアータの家に一団のミュージシャンたちが集い、最初の録音サンバが生まれた、あの時代は遠いものとなりました。

そ れでも救いがあるのは、カーニバルというものが娯楽としての価値を保持し続けており、新しい楽しみを作り出すことに依拠しているということです。物の道理 や人の可能性を信じる人々の力によって、エスコーラ・ヂ・サンバは健在しているのです。人々が好むように、豪華で、色あざやかに、大仰な愛や不思議な謎の 世界を持ち込みながら。

かつてあったような純粋さは失われました。商業化されたかどうかを別にしても、エスコーラ・ヂ・サンバは、偉大な存在であり続けており、おそらく古き時代の路上カーニバルと同一の、スペクタクル性を保持しています。

歌って、街を盛り上げなければ。エスコーラ・ヂ・サンバは時代の流行に左右されることはありません。ただそれに順応するだけです。土ぼこりを巻き上げて、またトップに返り咲くのです。

、、、それゆえに、またその他多くの理由からして、エスコーラ・ヂ・サンバは、ブラジル文化における黒人の融合をかたちづくる、影響、変化、美の概念、また、それらへの喚起をこの世にもたらす歴史的使命を負った存在といえる、、、
、、、日曜日の魔力ゆえに、エスコーラ・ヂ・サンバは、コンゴスの祝祭を迎えて「さあ、今日だ!」と叫んでいたような黒人たちの感動の、正統な後継者となるのだ。
(アロウド・コスタ著『エ・オージ(今日だ)』より)

カーニバル、イェー!

ジョゼ・フェリックス

参考文献
エヂガー・ヂ・アランカー「音楽から見たリオのカーニバル」(フランシスコ・アウヴェス1979)
モザルチ・ヂ・アラウージョ「ゼ・ペレイラ」(ジョルナウ・ド・コメルシオ1965)
フランシスコ・ギマランィス「サンバの輪の中で」(フナルチ1978)
ルイス・ダ・カマラ・カスクード「ブラジル民俗辞典」(エヂトーラ・イタリアーナ1984)
エヂガー・ヂ・アランカー「我らがサンバのシニョー」(フナルチ1981)
ホベルト・モウラ「チア・シアータとリオデジャネイロにおける小アフリカ」(フナルチ1983)
ジョタ・エフェジェー「アメノ・ヘセダー、エスコーラとなったハンショ」(レトラス・イ・アルチス1965)
ミシェル・レウリス、ジャケリーニ・デランジ「黒いアフリカ、造形」(アギラール1967)
セルジオ・カブラウ「エスコーラス・ヂ・サンバ」(フォンターナ1974)
ルイス・エヂムンド「わが時代のリオデジャネイロ」(ゼノン・エヂトーラ1987)
エネイダ「リオのカーニバル史」(エヂトーラ・シヴィリザサォン・ブラジレイラ1958)
ジョアォン・ド・ヒオ「路上の魅惑的な魂」(リオデジャネイロ市文化局1991)
ジョタ・エフェジェー「マシーシ――忌まわしきダンス」(コンキスタ1974)
マチーザ・リラ「シキーニャ・ゴンザーガ」(フナルチ1978)
マリア・テレーザ、メロ・ソアレス「エスタシオの聖イスマエル――王となったサンビスタ」(フナルチ1985)
ジョタ・エフェジェー「リオのカーニバルにまつわる人物と事象」(フナルチ1982)
オレスチス・バルボーザ「サンバ」(フナルチ1978)
R.マガリャンィスJr.「2世紀の喧騒」(ヘヴィスタ・マンシェッチ1972)
アロウド・コスタ「今日だ――Lanのエスコーラ」(イルマォンス・ヴィターリS.A.1978)


(サンバ・エンヘード)
作: ノカ・ダ・ポルテーラ、コロンボ、ジェウソン

カーニバルの時が来た
リオが扉を開けて喧騒を迎え入れる
サンバすべき時だ
世界に我々の盛り上がりを見せつける時だ
始まりは海を踊り渡ってやってきた
向こうからこちらへ、そしてこの魔法が生まれた
ぼくを幸せにするサンバ
その起源には、芸術と詩がある
ブンボを叩け、ゼ・ペレイラがやってくる
マドゥレイラにまた夢を見させてくれる
ポルテーラは遊びではない
土ぼこりをあげ、人々を熱狂させるのだ

たまらなく好きなんだ、君のこと、愛する人よ
さあその香水を吹き付けてくれ、ぼくは絶好調

プラッサ・オンゼ、ぼくらの幻想のゆりかご
デイシャ・ファラールは胸に郷愁を残していった
ハンショ、ブロッコ、コルダォンの郷愁
サロンに集う仮面の人々郷愁
コロンビーナに口づけするピエロ
紙吹雪や紙テープの雨
路面電車も懐かしさをとどめるだけ
ああ懐かしい、ソシエダーヂの豪華さ

道を開けて
ポルテーラを通してくれ
それは止むことのない声
宙を舞う喜びの歌声

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